南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。
株式会社 タゼン 十九代目 田中 善氏
仙台藩初代藩主・伊達政宗公が眠る瑞鳳殿に、一対の香炉がある。銘は「鎚起銅製家紋入大香炉」。奉納したのは、慶長元年(1596年)創業のタゼン。初代の田中善蔵は、政宗公の招きにより大坂・堺からこの地にやって来た。
御銅師(おんあかがねし)の誇りを胸に仙台とともに歩むタゼンについて、十九代目・副社長の田中善さんに、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいます。
(伊達武将隊かわら版vol.12/2018.10月-11月号掲載「伊達とは何か」より)
政宗 ここ柳町通りは、我ら伊達武将隊が街歩きでよくお客人をご案内する場所でもある。タゼン殿については以前から気になっており、いつか訪ねたいと思っておった。
田中 ありがとうございます。殿に足をお運びいただき、恐れ入ります。
政宗 まずは、タゼン殿のこれまでの歩みをうかがいたい。
田中 私どもの初代は、大坂の田中という地域の出身でした。名を善蔵と申しまして、銅を使った飾り金具などを作る「御飾職」、今でいう彫金師として腕を振るっておりました。この善蔵が政宗公と出会い、招かれて、当時居城となさっていた岩出山へと移り住んだのが、タゼンの始まりと伝えられています。慶長元年(1596年)のことでした。
政宗 わしが豊臣秀吉公の命を受け、慶長伏見地震で崩れた伏見城の修復に携わった折に出会ったのであったな。その後、善蔵はどうなったのか。
田中 実は当家は、藩政時代から今日に至るまで三度火災に遭ったと云われておりまして、残念ながら記録は一切残っておりません。かわりに代々こんな話が語り継がれています。善蔵は政宗公が岩出山から仙台に居城をお移しになるのに従い、仙台に移ってまいりました。仙台城や神社仏閣の飾り金具をつくる御飾師としてよく働いたということで、あるとき政宗公から「好きなだけ土地をやろう」とお声掛けいただいたのだそうです。それに対して善蔵は、「あまり広すぎると掃除に困りますので、猫の額ほどの土地で十分です」と答えたと。
政宗 それはおもしろい!
田中 政宗公は善蔵を気に入り、ここ柳町に土地をくださったということです。柳町は奥州街道沿いに広がる御譜代町で、通りの真ん中に立つと真正面に仙台城を臨むことができます。職人であった善蔵が、お茶の専売権が許された御譜代町に土地をいただいたこと、またそれが仙台城に近い場所であったことから、政宗公にたいへん気に入っていただいていたのではないかと推察しております。
政宗 当時わしは、気に入った者によく土地を与えていたからのう。
田中 土地だけではございません。善蔵は職人でありながら、名字もいただきました。「田中」という名字は、出身地である大坂の田中にちなんで、政宗公からお授けいただいたと当家では伝えられております。
政宗 なるほど、田中善蔵で「田善」。ゆえに、「タゼン」なのであるな。
田中 はい。以来、タゼンの当主は代々「善蔵」を襲名してまいりました。明治以降は、「善」の一字を継承しています。
政宗 仙台藩で、タゼン殿はどのような役割を果たしたのか。
田中 藩政時代、当家の先祖は「御飾師」あるいは「御銅師」と呼ばれておりました。ポイントは「銅」を扱うということです。銅鉱山から取り寄せた銅を叩いて板状にし、そこからさまざまな銅器を成形するのが仕事です。「御銅師」という敬称は、タゼンの17代目であった私の祖父が当時の伊達家御当主から教えていただいたと聞いております。「銅師」に「御」という接頭辞がつけられているのは、「銅」そのものを尊ぶ意味合いからであると考えております。
政宗 どのようなものを手掛けておったのか。
田中 政宗公の時代には仙台城の釘隠しなどの飾り金具をはじめ、神社仏閣で使う仏具や銅鏡、擬宝珠(ぎぼし)などを主に作っていたようです。仙台城や町のインフラに関わるものを作らせていただいて、初代は光栄だったと思います。
政宗 タゼン殿の技術は、城づくり、町づくりに必要な技術であったということであるな。ところで、当時、銅はどこから入手していたのであろうか。
田中 仙台藩には銅山はありませんでしたから、独自のルートを通じて手に入れていたものと思われます。銅を入手するのも御銅師の仕事の一環であったようです。銅はお金と同じ価値があり、庶民は扱うことができませんでしたので。だからこそ権力者たちは、御銅師を手元に置こうとしたのだと思います。
政宗 当時上方には、最先端の技術が集積されておった。いずこの大名も国をつくるとき、そこから善蔵のような技術者を招くことが肝要だったのじゃ。
田中 国づくりが一段落したあとは、仙台藩のお仕事をさせていただきながら、やかんや銅壺(お酒の燗などに使った道具)、菓子作りに使う銅鍋などにも手を広げていったようです。
政宗 もともとは藩のための技術であったのが、仙台のまちのため、庶民のためにと変化していったということであるな。
田中 最も変化が大きかったのは、藩政時代が終わり、明治に入ってからです。時代の変化に対応するため、やかんや風呂釜の製造に力を入れる一方で、東北帝国大学に医・理・化学の研究道具を製造して納めたり、当時仙台にあった第二師団の銅製品の制作を一手に引き受けたりもしていたようです。そんな中で、ボイラーの製造もはじまりました。現在は風呂だけでなく、キッチンやトイレなど、「火と水」に関わる住宅関係の困りごとをサポートさせていただいています。政宗公の時代から生活様式は変わりましたが、タゼンとしての本質は普遍的ではないかと考えています。
政宗 まち、そして人の暮らしを支える銅の仕事を今日まで継承してくれているとは、誠にありがたいことである。
政宗 田中殿は御銅師として、銅をどのように捉えておられるのか。
田中 銅は、紀元前7000~8000年頃、新石器時代の人たちにより、偶然「自然銅」として発見されました。「人類が初めて使用した金属」と言われています。以来、半永久的な金属である銅を、人々はさまざまなかたちで利用してきました。私自身はその本質を、「伝えるもの」だと考えています。熱を伝える、電気を伝える、情報を伝える。さらに、たとえば神事で使われる銅鏡は、願いを天に伝えます。銅は文明とともに歩んできた、文化に関わる重要なものだった。そんな銅の本質を捉えて、政宗公は銅の技術を持っていた初代を招いたのではないでしょうか。
政宗 仙台のまちを開いた折、わしは仙台城と城下を結ぶ仙台橋の擬宝珠(ぎぼし)に、師匠である虎哉和尚から贈られた「仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与暁天」という漢詩を刻んだ。仙台のまちづくりの指針となった漢詩であった。
田中 銅製であれば、当家の初代が手掛けたものかも知れませんね。
政宗 もちろん擬宝珠は銅製であった。永遠の繁栄を願う気持ちを半永久的な銅に刻んだところに、深い意味があったのやも知れぬのう。では田中殿にとって、伊達とは何であろうか。
田中 政宗公は、当家に大きな影響を与えてくださった御方です。初代とのエピソードは当家の誇りとなり、足るを知ることを学びました。そんな御恩ある方を前に「伊達」を語るのはおこがましいのですが……。よく「政宗公は桃山文化に憧れて仙台のまちづくりに採り入れた」という言い方をされますが、磨かれた人間性とか、先見性とか、視野の広さとか、その文化を発展させたところに真意があったような気がします。そのエッセンスこそが伊達なのではないのかと考えております。
政宗 では最後に、タゼン殿のこれからについてお聞かせいただきたい。
田中 無事に父から代表取締役を継ぐことができれば、私はタゼンの19代目当主になります。事業の継承が目下の課題ですが、それに止まらず、タゼンの本質である銅も大切にしたいと考えています。私は15歳で祖父が抱えていた筆頭の職人に弟子入りし、御銅師になりました。現在20年目ですが、銅の技術を次代につなぐために、来年、弟子をとることにいたしました。
政宗 それは祝着至極である。
田中 仕事は年々多様になっていますが、銅のブランドの発信もしてゆきたいと思っています。実は、当家の家訓のひとつに「職人商人たれ」というものがあります。職人の仕事に没頭し過ぎてはいけない、商人としての気持ちも忘れてはいけないという意味で、これは祖父の教えであり遺言でもありました。
政宗 バランス感覚が大切と言うことであるな。わしも、藩の運営や、生きることを大事とした武将としての在り様など、バランスを大事にしておった。その辺りに、初代・善蔵と通じるところがあったのやも知れぬな。
田中 ありがたいお言葉です。職人商人として、これからも歩んでまいります。
政宗公が眠る瑞鳳殿前の一対の大香炉「鎚起銅製家紋入大香炉」には伊達家の家紋が打ち出されている。50年前の伊達政宗公生誕400年記念の際にタゼンが奉納したものである(撮影協力/公益財団法人瑞鳳殿)
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