南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。
瑞巌寺 執事 天野 泰俊氏
世界に名だたる景勝地・松島。その中心を成す国宝瑞巌寺は、今から約400年前、仙台藩初代藩主・伊達政宗公が伊達家の菩提寺として建立したお寺です。去る6月には、10年の歳月をかけて行われた「平成の大修理」の完了を祝う落慶法要が営まれました。
政宗公がこの瑞巌寺に込めた思いについて、同寺の執事を務める天野泰俊さんに、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいました。
(伊達武将隊かわら版vol.11/2018.8月-9月号掲載「伊達とは何か」より)
政宗 瑞巌寺殿には「平成の大修理」の落慶、まことに祝着至極である。
天野 恐れ入ります。
政宗 わしがかつて建立した寺の話をうかがうというのも不思議な心持ちであるが、改めて松島と瑞巌寺のこれまでの歩みについてうかがいたい。
天野 古来松島は、霊場として多くの人々の崇敬を集めておりました。その理由は、景観にあります。当時の人々は、松島の景観を極楽浄土と重ね、「この世の浄土」あるいは「浄土への出発点」としてこの地を訪れていたようです。
政宗 もともと松島は信仰の地であったというわけであるな。
天野 当時の松島の地形は、入り江がずっと内陸まで入り込んでいたようで、その景色は人知の及ばない、神仏が造形なさったような景色であったと言われております。このような絶景や奇観の地は昔から、御霊が集まる〝霊場〟とされ、神社仏閣が建立されることがよくありました。松島の場合は、雄島(おしま)がその中心とされ、「雄島の景は浄土の景」「雄島は浄土への入り口」と言われておりました。数多くの御霊が集まる霊場として知られるようになった雄島には、極楽浄土への生まれ変わりを願う人々が多くお参りに訪れました。西行法師や松尾芭蕉も、雄島に足を運んで景色を眺めたと伝えられています。
政宗 この地を訪れる観光客の多くが、かつて松島が霊場として崇敬を集めていたことを知らぬのではないだろうか。そんな霊場松島に、瑞巌寺につながる寺が建立されたのはいつの時代のことであるか。
天野 瑞巌寺に伝わる資料の中に『天台記(てんだいき)』という文書(もんじょ)がございます。これによれば、今から約1200年前の天長5年(828年)、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によってこの松島の地に天台宗(てんだいしゅう)の延福寺(えんぷくじ)というお寺が開創されたと記されています。これが、瑞巌寺の前身であると伝えられております。
鎌倉時代に入りますと、時の執権・北条時頼公が法身性西(ほっしんしょうさい)和尚を開山として迎えたことにより、天台宗 延福寺は、臨済宗建長寺(けんちょうじ)派 円福寺となります。円福寺は鎌倉幕府の庇護を受けて栄えておりましたが、戦国時代に入ると次第に衰退し、その末期には臨済宗妙心寺派に属しておりました。
政宗 なにゆえ衰退してしまったのであろうか。
天野 戦乱の世ということで、僧の修行が十分にできなかったのではないでしょうか。また人々の心にゆとりがなくなり、お寺に足を運ばなくなったのも原因ではなかったかと推察いたします。政宗公の師であった虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師が記した『松島方丈記』には「仏宇僧蘆(ぶつうそうろ)ことごとく廃壊(はいえ)す」と記されており、かなり荒れ果てた状態であったようです。
天野 長い間、名ばかりの古刹となっていた円福寺の救世主となったのが、仙台藩祖・伊達政宗公でした。
政宗 虎哉宗乙禅師のすすめもあり、円福寺を再興したのである。
天野 はい。慶長14年(1609年)、円福寺は政宗公によって臨済宗妙心寺派 松島青龍山瑞巌円福禅寺、通称「瑞巌寺」として再興されました。同年3月26日に落慶の祝儀が営まれた際には、政宗公が朝鮮出兵の折に持ち帰った五葉の松と紅白の臥龍梅を本堂の前庭に自ら植えられ、「松島の松の齢(よわい)に此(こ)の寺の末栄(すえさか)えなん年はふるとも」という和歌を詠み、瑞巌寺の永遠の繁栄を祈念なさいました。「松に古今の色なし」「松樹木千年翠」と申しますように、松の緑は千年も変わらないということで、古来より長寿や繁栄の象徴であったことから、「松」を題材とした歌を詠まれたのだと伝えられています。
政宗 わしが仙台を築いた折に詠んだ「入りそめて国ゆたかなるみきりとや 千代とかきらしせんたいの松」という歌にも、「松」の文字を用いておる。
天野 瑞巌寺は、政宗公が伊達家の菩提寺として建立された寺でしたが、実際のところは戦乱で亡くなった家臣や領民を弔うための寺でもありました。政宗公がご自身の善処後生(ぜんしょごしょう)、浄土往生を願っただけではなく、広く領民のための信仰による安心と、領内の平和の実現を願って瑞巌寺を建てられたことは、虎哉禅師の『松島方丈記』にも記されております。
政宗 創建当時の逸話として、何か伝わっておるものはあろうか。
天野 瑞巌寺建立にあたって政宗公は、「棟(むね)や床(ゆか)に上がる時は、草鞋(わらじ)を履き替えよ。土足のまま上がってはならない」、また「釘(くぎ)、鎹(かすがい)といえども、たとえ間違って落としたものであっても、地面に落ちたものは使ってはならない」と訓示なさったそうです。
政宗 当時、地面は不浄(ふじょう)であると考えられていたからのう。
天野 「神聖な伽藍(がらん)を造営するために、不浄なものを使ってはならない」「土足のまま上がってはいけない」という訓示からは、瑞巌寺建立に重ねた政宗公の新しい国づくりにかける強い思いが伝わってくるような気がいたします。こうして建てられた瑞巌寺に、政宗公はその後もしばしば足をお運びになりました。政宗公は「月の松島」、特に本堂から見る月をことのほか好まれたということです。
政宗 うむ。中秋の名月を愛でるために瑞巌寺を訪れた折に、「中秋 月を松島に賞す」という漢詩を作ったこともあったのう。
天野 同時代に同じ様式で建てられた京都聚楽第、仙台城大広間がすでに失われていることを考えますと、桃山の建築と美術がそのままの姿で瑞巌寺に残されておりますことは、非常にありがたいことであると思っております。
政宗 去る6月に「平成の大修理」落慶法要が行われたが、そもそもこの大修理はどのような内容であったのか。
天野 主に「コンクリート基礎工事」「ポリカーボネイト耐震補強工事」「発掘調査」を目的として行われました。工事を進めて行く上で、構造上の大きな発見がありました。本堂の主要な壁全てに補強や耐震を目的とする「筋違(すじか)い」が見つかったのです。室町期の建物にも使用例はありますが、瑞巌寺のように部屋の境の壁全てに筋違いが採用されている例は現在のところまだ発見されておりません。今回の修理では、この筋違いにポリカーボネイト製の耐震補強パネルを埋め込んで、さらに耐震性を向上させました。
政宗 400年前、わしは当時の最先端の技術で瑞巌寺を建てた。慶長の技と平成の技が融合し、より堅牢な建物になったのは誠に喜ばしいことである。
天野 6月22日の落慶慶祝前夜祭の武者行列には、伊達武将隊の皆様にもご参加いただき、盛り上げていただきました。また、24日の落慶法要には全国から僧侶や関係者約400人にご参列いただいたのですが、厳粛な雰囲気の中、仙台伊達家十八代御当主伊達𣳾宗様による献香、裏千家前家元 千玄室大宗匠による献茶が行われ、法要が挙行されました。
政宗 当日は9000人もの参拝客があったとか。
天野 はい。松島町内にある神社の御神輿6基も出るなど、行政、町民、神社、寺院など多くの方々のご協力をいただき、落慶を盛り上げていただきました。私は主に裏方を務めましたが、皆様に感謝するばかりでした。
政宗 そんな天野殿にとって、伊達とは何であろうか。
天野 誇りであり、道標であり、かけがえのないふるさとのようなものでもあります。実は私は大和町にある天皇寺の住職を務めさせていただいているのですが、この天皇寺を創建したのは政宗公の三男・伊達権八郎宗清様です。境内には宗清様のお墓とその養母であった飯坂の局のお墓もございます。伊達家と深いご縁のある瑞巌寺と天皇寺、この二つの寺に関わる者として、伊達家を辱めないような生活を心がけなければならないという思いを強く持っております。
政宗 それでは最後に、瑞巌寺のこれからについてお聞かせいただきたい。
天野 私どもは今、10年に及ぶ大修理が完了して安堵する一方で、落慶を新たな節目にしなければならないとも考えています。瑞巌寺は、政宗公が再建してから400年の歴史を誇りますが、近年は観光寺院としての側面が目立ってきています。これを、創建当時のお寺の在り方に立ち返り、たとえば座禅や写経を体験したり、瑞巌寺住職の吉田老大師のお話を聞いていただいたりと、多くの方に禅や仏教を全身で感じていただける機会を増やしていきたいと考えています。
政宗 禅寺として原点回帰し、なおかつ開かれた寺にしたいということであるな。
天野 吉田老大師は、一人ひとりが大きな気持ちを持ち、本気で世界平和を願えば、争いなど起きないと考えていらっしゃいます。こうした思いを大切にしつつ、瑞巌寺の次の400年を見据えてゆかねばならないと考えています。古来霊場として栄えた松島が文化都市、宗教都市として担ってきた役割を、皆様の御協力をいただきながら引き継いでゆきたいと思っております。
※文中で表示の年数は取材をした2018年7月当時のものです。
国宝 瑞巌寺 奥に伊達政宗甲冑椅像(複製)と藩主の部屋「上段の間」。ここでどのような言葉が交わされていたのかと思いを馳せる 宮殿の様子や首都洛陽の繁栄などが描かれている襖絵「周文王狩猟図」
国宝 瑞巌寺
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