南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。
大崎八幡宮 宮司 小野目 博昭氏
仙台城の乾(北西)の方角にあり、一月一四日に行われる「松焚祭」、通称「どんと祭」には、約一〇万人を超える参拝客が訪れる大崎八幡宮。ここは、仙台藩初代藩主・伊達政宗公に縁の深い神社です。
政宗公がこの神社に込めた思いについて、大崎八幡宮 宮司 小野目博昭さんに、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいます。
(伊達武将隊かわら版vol.9/2018.4月-5月号掲載「伊達とは何か」より)
政宗 今年、我ら伊達武将隊は九期目に入った。出陣式にあたっては、毎年、大崎八幡宮に参拝させていただくのが一期目からの倣いとなっておる。
ここは我らにとっても仙台の皆にとっても、たいへん身近な神社であるが、その由来については存外知られていないようである。小野目殿には、まず、大崎八幡宮の由来についてお聞かせいただきたい。
小野目 大崎八幡宮は、仙台藩初代藩主 伊達政宗公が岩出山から仙台に居城を移して間もなくお造りになったお社です。創建当初は「八幡宮」という名称でした。このお宮が造られた経緯を語るには、源頼朝公の時代にまで時を遡らなければなりません。
朝廷が政治の中心だった時代、武士の身分は決して高くありませんでした。頼朝公の位は従五位の下。五位以上が昇殿を許される「殿上人」と呼ばれたのに対し、五位以下は「地下の人」と呼ばれていました。
そんな頼朝公が武士の頭領として、公家に代わって日本を統一するために作ったのが、鎌倉幕府です。頼朝公は公領や荘園を管理するという名目で、自分の家来を守護・地頭という名称で全国に派遣しました。これに伴い、頼朝公が大切にしていた武家の守護神・八幡様も全国に広まりました。
政宗公の祖先はもともと源氏の一族で、関東地方の中村荘を領して「中村」を名乗っていました。頼朝公の奥州征伐で戦功を挙げたことにより、陸奥国伊達郡に所領を賜り、以降「伊達」と姓を改めたのです。
政宗 左様、伊達家初代は源頼朝公と深い関わりがござった。
小野目 そこから時代が下がって、政宗公の時代の話になります。宮城県北部には室町時代から続いていた、大崎氏という豪族がいました。天正19年(1591年)、大崎氏は豊臣秀吉の東北支配に抗い、葛西・大崎一揆を起こします。秀吉は政宗公にこの一揆を平定させ、この地を領地として与えた一方、米沢を中心とする本来の領地を取り上げ、居城を岩出山へと移させます。
さらに時代が下がり、関ヶ原の合戦を経た慶長6年(1601年)、政宗公は岩出山から仙台へと移ります。地名を「千代」から「仙人が住む高殿」という意味の「仙台」に改め、青葉山に城を築きました。
この地に移り住んだ政宗公が最初になさったこと、それは塩竈神社や瑞巌寺、陸奥国分寺薬師堂など、もともとこの地にあった寺社の修復や造営でした。
政宗 そうであった。我が思い、何故と思われるか。
小野目 以前からこの地に住んでいた人々に配慮なさったのだと思います。ある意味新参者であった政宗公が、土地の人々と力を合わせて国造りを進めるためには、そうした配慮が必要だったのです。
旧来の寺社を修復・造営する一方で、政宗公は自分たちの信仰の場・祈りの場も造られました。それが大崎八幡宮でした。大崎八幡宮が完成したのは慶長12年(1607年)。今から411年前のことです。
政宗 「大崎」という名称の由来は?
小野目 先ほど申し上げた、大崎氏と関係があります。大崎氏が篤く崇敬していたのが八幡宮で、「大崎八幡宮」と呼ばれていました。大崎氏滅亡後、政宗公はそのご神体を岩出山に遷し、さらに仙台開府後は、旧領の米沢で伊達家が代々崇敬していた成島八幡宮のご神体とともに、現在の地にお祀りになりました。社殿は、政宗公が京都から招聘したその時代随一の工匠たちによって造営されました。この社殿は、昭和27年(1952年)、安土桃山時代の文化を今に伝える我が国最古の建造物として国宝に指定されています。
政宗 創建にあたり、わしが込めた思い、小野目殿はどのようにお考えか。
小野目 私は二つあると考えています。ひとつは、それまで伊達家を守るために尽くしてくれた家来・一族への感謝の思い。もうひとつは「冥加」といって、神仏の加護を願う思いです。
政宗 なぜそのように思われるのか?
小野目 黒い社殿であるからです。神社は一般的に朱色や白木で造営されますが、大崎八幡宮は黒漆で彩色されています。日本では古来より、黒が最も格が高い色なのです。たとえば徳川家康を祀る久能山東照宮、源頼朝公を祀る鶴岡八幡宮の白旗神社なども社殿は黒です。これらの神社は、亡くなった方を祀っています。政宗公は、自らが平定した大崎氏も含め、伊達家に関わった全ての人への感謝を込めたのではないでしょうか。さらに、神のご加護をいただいて、仙台というまちが未来永劫続くように、という思いを込められた。そうした思いから、最も格が高い「黒」を使ってお社を造られたのではないかと考えています。
政宗 きらびやかな装飾に目を奪われがちだが、この黒い社殿にこそ我が思いが込められているというのじゃな。
小野目 外観は桃山建築特有の華やかな装飾が目立ちますが、実は内側にはほとんど装飾はありません。特に、ご神体をお祀りする内陣の障壁画は、墨一色で描かれています。この外観と内陣の趣の違いに、私は桃山文化と足利文化の対比を感じます。政宗公の武士としての確固たる信念を感じるのです。 政宗公は、武士の頭領であった源頼朝公の文化を引き継いだのではないかと考えています。頼朝公は当時漁村であった鎌倉に幕府を作りました。政宗公は、仙台に城を築いて新たにまちを興した。頼朝公は、守護地頭を全国に派遣してその領地を守らせました。政宗公も、自分の家来を領内に配置した。八幡様は、頼朝公も崇敬していた武運の神様です。
そういう意味でも、この大崎八幡宮には、仙台のまちを開いた藩祖・伊達政宗公のお気持ちが、今もなお強く残っていると考えています。
政宗 現在の大崎八幡宮の役割は?
小野目 大崎八幡宮は、仙台総鎮守と謳っています。その役割は、政宗公が未来永劫続くようにと願った仙台のまちと市民を守るということに尽きます。
我々は、そんな政宗公の思いを次に引き継がなければならない。神道には、「今、自分が生かされているのはこれまでの経過を踏まえて次に繋ぐためである」という意味の〝中今〟(なかいま)という言葉があります。我々はまさに中今で、その役割は、伝わって来たものを次に伝えることです。ただし、守るだけでは守れない。変わりながら伝えていかないと、伝えることはできません。それが伝統であり、歴史になるのです。
政宗 大崎八幡宮は平成に入ってから大改修を行ったと聞くが、これもまた変わりながら伝えていくということであるか。
小野目 どこまで変えるかは常に悩みどころで、木を1本切るのにも、決断を迫られます。中でも社殿の御修理は大きな決断でした。
政宗 左様であったか。決断誠に感謝いたす。最後に、わし政宗が思いを込めて創建した御社を預かる小野目殿にとって、伊達とは何であろうか。
小野目 「感謝と祈りの心」であると思います。きらびやかさとか派手さではなく、目には見えないもの。人格というか、香りというか、醸し出されるようなもの。酒蔵や味噌蔵には蔵つきの酵母がいると言われていますが、大崎八幡宮の空気には、政宗公の思いが息づいている。この空気を、ぜひ訪れた皆様、特に、地元である仙台の皆様に感じていただきたいと思っています。
宮司である私の役割は、政宗公のお気持ちに触れていただける場所であるこのお社と境内を守り、残していくこと。そして、大崎八幡宮が今ここにある意味を伝えてゆくことであると考えています。
政宗 うむ。此度、源頼朝公に倣った武士の文化や国造りの話、さらに、未来を創るために過去に学び、努力されていたことなど、実によくわかった。わしも〝中今〟の心で、仙台・宮城の歴史と四百年前の我が思いを伝えてまいりたいと存ずる。
小野目 政宗様にはぜひ、仙台開府前後から今までを繋ぐ仙台の歴史や文化を、後世に伝えていっていただきたいと期待しています。
国宝 大崎八幡宮 |
※文中で表示の年数は取材をした2018年3月当時のものです。