南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。
秋保温泉 伝承千年の宿 佐勘 三十四代当主 佐藤 勘三郎氏
時を超え、滔々と流れる名取川。その上流には、仙台藩初代藩主・伊達政宗公をはじめ歴代の藩主とゆかりが深い温泉があります。
秋保温泉の歴史と伊達文化への思いについて、この地の湯守を長く務めた「伝承千年の宿 佐勘」三十四代当主 佐藤勘三郎さんに、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいます。
(伊達武将隊かわら版vol.7/2017.12月-2018.1月号掲載「伊達とは何か」より)
政宗 わしがこの世に生を受けてから、今年で450年になる。人の姿、まちの在り様は変わったが、時を超えてなお変わらないものも数多くある。秋保温泉もその一つじゃ。まずはその歴史をお聞かせ願いたい。
勘三郎 具体的な開湯の時期は明らかではありませんが、古墳時代後期にはすでに、温泉が湧いていたようです。この温泉の存在が世に知られるようになったのは、今から約1500年前の第29代欽明天皇の時代でした。
欽明天皇が皮膚病を患った折、この地から献上されたお湯で沐浴したところ、数日のうちに全快なさったのだそうです。たいそう喜ばれた天皇は、「覚束(おぼつか)な雲の上まで見てしかな鳥のみゆけば跡形もなし」という歌を詠まれました。この歌は、「なとりのみゆ=名取の御湯」という言葉が隠されている〝隠し歌〟となっています。天皇より「御湯」の称号を賜った「名取の御湯」はこれ以降、霊験あらたかな温泉として広く世に知られるようになりました。
政宗 「御湯(みゆ)」とはどういう意味であるか。
勘三郎 天皇が用いる〝御料温泉〟というような意味であったようです。全国で「御湯」の称号が許されたのは、名取(秋保温泉)・信濃(別所温泉)・犬養(野沢温泉)のみで、これらは「日本三御湯」と呼ばれています。
政宗 「名取の御湯」はその後どうなったのか。
勘三郎 奈良時代に入ると、大和朝廷はこの地方を陸奥国と定め、蝦夷討伐に乗り出します。その拠点として多賀城に国府が、武隈(現在の岩沼市)には鎮守府が置かれました。その折、赴任した国司が「名取の御湯」の効能を奏上したことにより、朝廷から許された人々のみが利用できる「勅封の温泉」に指定されました。
政宗 なるほど、多賀城や武隈に赴任してきた国司や役人、兵士たちが保養・療養したということであるな。
勘三郎 その辺りから、「秋保温泉」というものの原形ができていったのではないかと私は考えています。
政宗 ところで、佐藤家はわしが仙台に移るはるか以前より、この地に住まっておったと聞くが。
勘三郎 おっしゃる通りです。そもそも私どもの先祖は、平家の落ち武者であったと言われています。文治元年(1185年)、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡しましたが、その残党は全国各地に落ち延びました。初代・佐藤勘三郎は、平重盛公の子孫である平基盛に随従して秋保に入った七人の家臣のうちの一人でした。この地に根を下ろしたのちは、森林や河川、さらに温泉の管理を行っていたようです。
政宗 当時から湯宿を営んでいたのであるか。
勘三郎 湯宿を生業とするようになったのは今から600年ほど前からで、それまでは、主に木を切って名取川に流す木材業で収入を得ていたようです。
秋保に定着してから代々温泉を管理してきた当家が、改めてこの地の湯守に任じられたのは、政宗公が仙台に移り、仙台藩初代藩主となられてからです。湯守のほかにも、村をまとめる肝入、藩の御林の管理を行う山守、鮎獲り等を請け負う川守といったお役目を藩から任され、代々務めてまいりました。
政宗 湯守の務めとはどのようなものであったのか。
勘三郎 源泉の維持管理、藩主のための湯浴御殿の管理のほか、入浴客から湯銭を徴収してその一部を藩に上納するのが主な務めであったようです。
当家に伝わる史料には、政宗公をはじめ四代綱村公、五代吉村公、七代重村公など、歴代藩主が立ち寄られたことが記されています。中でも政宗公は、お好きだった鷹狩りや鹿狩り、川狩りのためにしばしばこの地を訪れ、お湯に浸って帰られたようです。
政宗 鷹狩りや鹿狩りは娯楽であると同時に、戦の鍛練でもあったのでな。
勘三郎 政宗公のお母上である保春院様がご実家のある米沢から仙台にお戻りになる際、お泊りになったという記録も残されています。保春院様はここで荷を解き、身を清めてからお城に向けてご出立なさったということです。
政宗 わしは世にあったときから「おもてなし」に心を砕いてきた。佐勘ではどのようなおもてなしを心がけているのか、お聞かせいただきたい。
勘三郎 お客様に心から寛いでいただくためには、快適性・利便性・透明性が大切だと思っています。言葉にするならば、「仰々しくない、空気のようなおもてなし」ということになりましょうか。
年々増加している海外からのお客様に対しては、日本を感じていただけるような仕組みやおもてなしが必要であると感じています。これは昨年、私ども佐勘を会場に開かれた「G7仙台 財務大臣・中央銀行総裁会議」で強く感じたことです。たとえば江戸時代初期に建てられた当館の主屋は、日本の方が見ても興味深いスペースではないかと思っています。大切なのは、老若男女、誰が見てもすぐにわかること。そうした意味において政宗公が率いる伊達武将隊は、仙台にとってたいへん大きな力になっていると感じています。
政宗 身に余るお言葉、かたじけなく存ずる。では最後にうかがいたい。勘三郎殿にとって、伊達とは何であろうか。
勘三郎 進取の気風や斬新さであると捉えています。これらが際立つのは、揺るぎない土台があればこそです。
私は昨年、佐勘とは全く異なるコンセプトの「KYOU BARLOUNGE&INN」をオープンさせました。気軽に利用できるバーラウンジとローコストタイプの客室を備えた宿泊施設です。
歴史や伝統は「堅苦しい」と思われがちですが、そうしたベースがあるからこそ、新しいことにチャレンジしやすいのではないかと考えています。
政宗 なるほど、そのような考え方もまた「伊達」であるな。
勘三郎 仙台についても、政宗公に端を発する「伊達文化」を背景に、新たな魅力を創出することができるのではないかと思っています。たとえば温泉であれば、仙台独自のお湯の楽しみ方として、「伊達湯道」のようなものを……。
政宗 「伊達湯道」とは面白い!
勘三郎 震災の折、佐勘では被災した方々にお湯を使っていただきました。ご利用が1日1000人を超える日もありました。その時、改めて「お湯の力」というものを感じました。これまでの歩みを振り返ってみても、佐勘の原点が「お湯」であることは間違いありません。これから私たちは、お湯の力、温泉の魅力を、「伊達文化」を背景に、しっかり伝えてゆきたいと考えています。
伝承千年の宿 佐勘 |
※文中で表示の年数は取材をした2017年9月当時のものです。