伊達とは何か<16> 文芸と伊達文化

南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。

 

 

伊達とは何か<16>

時代を超えて文芸と伊達文化を語る

仙台大学客員教授 登米伊達家 第十六代当主 伊達 宗弘氏

 

登米伊達家にて (右)仙台大学客員教授 登米伊達家第16代当主 伊達宗弘氏 (左)伊達武将隊 伊達政宗 2人の後方には仙台藩祖伊達政宗公の塑像

 

仙台藩初代藩主・伊達政宗公には、「武将」としての顔の他に、高い美意識を備えた「文化人」としての顔もありました。その背景には、学芸を嗜むことを大切にした伊達家の家風があったと言われています。
 東北の歴史と文化を研究し、関連の著書も多い伊達宗弘さんに、政宗公と文芸について、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいます。(伊達武将隊かわら版vol.20/2020.2月-3月掲載「伊達とは何か」より)

 

 

伊達家一門・登米(とよま)伊達家とは。

登米の地で、藩と藩主を支え続ける

 

政宗 登米伊達家の現当主・伊達宗弘殿にお目にかかれ、祝着至極である。さっそくだが、ご当家の屋敷内にある覚乗寺高台院霊屋は、我が孫の霊廟であるとうかがったが。
伊達 二代藩主・忠宗公の五男であった宗倫(むねとも)様の霊廟です。宗倫様は幼くして登米伊達家に跡継ぎとして迎えられ、四代当主になられました。本日、御屋形様が当家にいらっしゃるということで、昨晩は御廟もざわついていたようです(笑)
政宗 あとで霊廟を訪ね、手を合わせることにいたすとしよう。――改めて、宗弘殿に登米伊達家の今日までの歩みについてうかがいたい。
伊達 当家の先祖は、政宗公にお仕えした白石宗実という重臣でした。宗実は娘一人であったことから、政宗公は白石家の名跡を守るため、梁川城主・伊達宗清の嫡男・宗直を白石家の養子としました。白石宗直は大坂の陣等で功績を上げたことから伊達の姓を賜り、伊達宗直となりました。この宗直が、約420年前に登米に移封されたのが、登米伊達家の始まりです。
政宗 家格は、伊達家一門第五席であったな。
伊達 四代当主・宗倫様のように、仙台伊達家との間で養子のやり取りが七度ほど行われていたこともあって、登米伊達家は11家ある一門の中で最も仙台伊達家と関わりが深い家といわれていました。そのため、藩政時代から幕末まで、常に藩主の後見的な役割を果たしてきたようです。当家は仙台城下の大手門近くに大きな屋敷を賜っておりましたので、藩主がお国入りなさる際にはその屋敷に一度入り、身支度を整えてから、改めて家臣たちが並び立つ登城路を通って仙台城にお入りになったと伝えられています。
政宗 藩政時代が終わり、明治の世となってから、登米伊達家はどうなったのであるか。
伊達 最後の館主となった13代・邦教は、8000石を家臣に分配し、耕地を持たなかった者には山林・原野を与え、家臣全員を土着帰農させました。帰農した人々の努力もあって、明治以降、登米は経済的にはもちろん文化的にも大いに発展しました。昭和27年の大火で焼失するまで、まちの中心部には藩政時代をほうふつとさせる武家屋敷が多く見られたようです。
政宗 邦教殿はその後いかが相成ったのか。
伊達 私財を全て投じ、病床から全家中の帰農手続きの完了を見届け、29歳の若さで生涯を閉じました。明治2年のことでした。その後、財産を全て失い、困窮する登米伊達家の行く末を案じた家臣たちが、分配されたものの一部を献上してくれたそうです。これをもとに、当家の財政基盤は確立されました。
政宗 登米伊達家の館主と家臣が互いを思いやる気風、まことに天晴れである。

登米伊達家第4代当主伊達宗倫の霊屋、覚乗寺高台院霊屋にて。宗弘氏の案内で政宗がたどり着くと、陰っていた空が青空に変わり陽光が差してきた

初めて訪ねる政宗の孫、宗倫の霊屋は江戸初期に建てられ、松島の円通院霊屋とともに仙台藩霊屋建築の秀作といわれている

漆塗、胡粉塗、金具で装飾された須弥壇は建築当時の技術の素晴らしさを伝えている

 

 

 

伊達家の家風が、政宗公の文芸の才を育む。

幼い頃から連歌や書道、茶道、香道、能楽などを嗜む

 

政宗 この登米の地に約420年続く登米伊達家の16代当主として、宗弘殿は生まれたのであるな。
伊達 昭和20年に生まれ、戦後の激動の時代に育ちました。農地解放、財閥解体、華族制度の崩壊、公職追放などもあって経済的には厳しい状況でしたが、『古今和歌集』や『吾妻鏡』を暗唱させられたり、宗倫様の霊廟の文化財指定のために来ていた先生方にお話をうかがったり、豊かな教育を受け、文学や歴史を身近に感じながら育ちました。父はよく、政宗公が残したとされる『五常訓』を口ずさんでおりました。
政宗 おお、「仁に過ぎれば弱くなる、義に過ぎれば固くなる、礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる…」じゃな。
伊達 この『五常訓』のように、登米伊達家の歴代の当主は私心を捨て、公的な立場をよくわきまえて過ごしていたのだろうと思います。父も祖父もそれに倣い、公共事業などには損得抜きで積極的に協力していました。父は折に触れ、よく政宗公のことを話題にしておりました。
政宗 どのようなことを話しておられたのか。
伊達 『五常訓』にあるように、何にでも感謝をするようにということと、政宗公の教養の高さについてです。政宗公というと「武」のイメージが先行しがちですが、一方で、豊臣秀吉に「鄙の華人」と讃えられるほどの豊かな感性と美意識を持っていました。そしてそれらは、連歌・書道・茶道・香道・能楽といった学芸を重んじた、伊達家の家風によって育まれたといわれています。

政宗 父・輝宗は趣味・教養をことのほか重んじた御方で、わしが初めて正月の七種連歌の席に列したのは11歳のときであった。
伊達 伊達家にとって、連歌は特別なものでした。東北は、およそ半年もの間、雪の影響で外に出られません。家中の連帯を保ち、緊迫感を持たせ、教養を磨くために、連歌が必要だったのではないかと私は考えています。この連歌の会は、京都から一流の連歌師を迎えて開かれる格調高いものでした。
政宗 家中の錬成のため、ひいては領国維持のため、連歌は必要欠くべからざるものであったのだな。
伊達 もともと豊かな感性の持ち主であった政宗公は、そうした伊達家の家風を背景に、虎哉宗乙禅師を師としたことで漢文・漢詩などへの造詣を深めたり、若くして秀吉に臣従したことで桃山文化の息吹に触れたり、さらには南蛮文化にも触れるなどして、天賦の才を大きく花開かせたのではないでしょうか。
 母上である保春院様の訃報に接したときに詠んだ

「鳴く虫の声を争う悲しみも涙の露ぞ袖にひまなき」

や、16歳の我が子に先立たれた悲しみを詠んだ

「いとけなき人は身果てぬ夢かとようつつに残る老いの身ぞうき」

花の命のはかなさを詠んだ

「咲きしより散るをならひの花ながらおくるる春は悲しかりける」

のように、政宗公は「武」のイメージとはほど遠い、心が籠もった繊細な和歌をいくつも残されています。

東北の歴史と文学を紹介した本を数多く執筆・出版している宗弘氏の著書類

(左)「みちのくの指導者、凛たり」-伊達八百年の歩み―(右)「みちのくの和歌(うた)、遥かなり」

家臣の土着帰農により発展した文化のひとつ「能」。登米町には江戸時代から伝わる「登米能」をはじめさまざまな伝統芸能が受け継がれている 伝統芸能伝承館 森舞台[建築家 隈研吾氏設計] 入館料/200円 登米市登米町寺池上町42 Tel.0220-52-3927

 

 

 

――すべては登米のために。

次の時代を担う人たちに、ふるさとの歴史や文化を伝える。

登米伊達家に伝わる資料は全て「登米懐古館」へ

 

 

政宗 宗弘殿が「登米伊達家」を意識するようになったのはいつ頃であったのか。

伊達 幼い頃からです。家には家老のような方がおりましたので。また、小学校の先生も私のことを「伊達公(だてこう)と呼びなさい」と言ったりして。でも、みんなまだ子どもでしたから「伊達子(だてこ)」だと思ったらしく、今でも同級生たちからは「伊達子」と呼ばれています(笑) この家に生まれたことを重荷に感じることもありましたが、宮城県庁に入って宮城県図書館の館長を務めたこと、現在、仙台大学の客員教授として歴史講座を担当したり、東北の歴史文化を題材に本を執筆したり、講演を行っていることは、生まれと無縁ではないと思っています。
政宗 では、そんな宗弘殿にとって、伊達とは何であろうか。
伊達 政宗公の国づくりそのものであると思っています。始めたのは34歳でしたが、公はこの時までに天下人や一流の文化人、一流の芸術文化、南蛮文化などに触れ、さらには数多の戦や朝鮮出兵など、あらゆる経験を積んできていました。激動の時代を生き抜いた人のみが手にすることができる研ぎ澄まされた感性が、政宗公の国づくりの随所に現れています。四ツ谷用水を造ったり、人々の心の拠り所となる大崎八幡宮を造営したり、北上川を改修したり、ローマに慶長遣欧使節を派遣したりと、進取の気風に満ちた他の誰にも真似できないようなことをやってのけた。それが政宗公の国づくりで、まさに伊達でした。
政宗 国づくりにあたり、わしは「千代」という地名を唐の漢詩に基づき「仙台」と改め、

「入りそめて国豊かなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいの松」

という歌を詠んだのであったのう。

伊達 新たな国づくりへの気概と希望が感じられる、よい歌ですね。その歌の通り、政宗公が国づくりに込めた高邁な理念は脈々と引き継がれ、蘭学者・大槻玄沢、漢学者・大槻盤渓、経世家・林子平、国文学者・落合直文、詩人で英文学者の土井晩翠など、後の世の人材の輩出にも結びついてゆきました。
政宗 それは何より嬉しいことである。では最後に、登米伊達家のこれからについてうかがいたい。
伊達 次の時代を担う人たちが胸を張って語ることができる、ふるさとの歴史や文化を伝えていきたいと思っています。当家に伝わる資料は地域の方々に利用していただくため、全て昨年9月に開館した「登米懐古館」に移管する予定で、すでに多くの資料を展示していただいております。これから国際化が進めば、日本人としての土台が求められるようになります。そうした土台をつくるために、同施設で定期的に講座を開くことも考えています。それが、当家がこの地のために果たせる役割ではないかと思っています。
政宗 登米伊達家の歴代当主が受け継いできた、私心を捨て公的な役割を果たそうとする気構え、宗弘殿にもしっかり受け継がれていることに感服いたした。我ら伊達武将隊も宗弘殿と思いは同じ。これまで以上に当地に足を運び、その歴史や文化を次の世代に伝えてまいりたいと存ずる。

令和元年9月に武家屋敷通りの一角に移転した「登米懐古館」。登米伊達家に伝わる資料をはじめ、武具や刀剣など伊達文化を伝える資料を数多く展示している

和歌懐紙「咲時ハ」 筆:伊達政宗 画:狩野探幽 賛:江月宗玩  政宗没後、清水道閑の依頼により、政宗公が詠んだ古歌に、政宗公の後ろ姿を探幽が描き入れ、江月和尚が賛を書き入れたもの。「咲時ハ 花の数にハ あらねども 散にハもれぬ 山さくらかな」咲く時は目立たない山桜も散る時は、鮮やかに人目を引くという意味。懐古館所蔵:登米市指定文化財

エントランスから館入口までのアプローチには地元産のスレートが配置されている

檜皮葺きの屋根に苔が生えて緑になっていく様子にヒントを得て、地元産のスレートで葺かれた屋根と緑化ルーフを組み合わせ、まち並みに溶け込む施設をめざして設計されている
登米懐古館 [建築家 隈研吾氏設計] 入館料/400円 登米市登米町寺池桜小路72-6 Tel.0220-52-3578