伊達とは何か<15> 弓術と伊達文化

南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及びその遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。

 

伊達とは何か<15>

時代を超えて弓術と伊達文化を語る

仙台藩日置流印西派 第十三代宗家 吉田 清明氏
伊達印西派弓術研究会 主宰 東北学院大学教養学部教授 黒須  憲氏

 

遠刈田梨割弓道場 射場にて (左)仙台藩日置流印西派 第13代宗家 吉田清明氏(右)伊達印西派弓術研究会 主宰 黒須憲氏 (中央)伊達武将隊 伊達政宗

かつて仙台藩には、三つの弓術流派が伝わっていました。その一つが、日置流印西派弓術でした。現在、仙台藩とともに歩み、明治維新によって歴史に埋もれていたこの弓術を復興し、次の世代に伝えようとする取り組みが行われています。 
 仙台藩日置流印西派宗家の吉田清明さんと研究会を主宰する黒須憲さんに、伊達の弓術復興にかける思いについて、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいます。
(伊達武将隊かわら版vol.19/2019.12月-2020.1月掲載「伊達とは何か」より)

 

 

弓術とは、日本の伝統的な運動文化である。

狩猟の道具から武器へ、歴史とともに発展

 

梨割弓道場射場にて政宗の指揮のもと、膝立ちの体勢「割膝」で弓を引く上野氏、吉田氏、黒須氏


政宗
 5月の「仙台・青葉まつり」で、仙台藩日置流印西派弓術を体験させていただいた。現世に蘇ってからひさびさに弓を引いたが、実に愉快であった。
黒須 構えを拝見して、弓の心得があることがすぐにわかりました。
政宗 戦国の世では剣、馬、弓は武士のたしなみであったからのう。改めて黒須殿に問うが、「弓術」とは何であろうか。「弓道」とはどう違うのか。
黒須 弓術とは、弓に矢を番(つが)えて目標物に発射する、戦闘技法から発達した日本の伝統的な運動文化です。弓矢は、古代石器時代から日本の歴史とともに発展してきました。狩猟の道具として用いられていた弓矢は、鎌倉時代以降は武器として重用されるようになり、この弓矢を操作する方法である弓術は、〝戦闘術〟として発達しました。
政宗 たしかに鉄砲が伝来する前は、弓矢を装備した弓隊が攻撃の要であった。
黒須 太平の世が訪れると、弓術は武士のたしなみとなり、その射術は江戸幕府の武芸訓練機関であった講武所や各藩の藩校で受け継がれてきました。しかし、明治維新で幕藩体制が崩壊するとそれらの射術も廃れてしまい、以降は主にスポーツとして行われるようになりました。私は「伝統的な物」か、「新しい物」かという視点で、前者を「弓術」、後者を「弓道」と呼んで区別しています。
政宗 日置流印西派弓術とは、どのような弓術であるのか。
黒須 日置流というのは、日置弾正政次(へきだんじょうまさつぐ)を流祖として発展した弓術です。古流に革新的な工夫を加えた日置流は、戦闘で活躍する射術として、吉田氏によって継承されました。中でも吉田一水軒印西(よしだいっすいけんいんさい)を流祖とする日置流印西派は、徳川家指南役となった流派で、江戸を中心に、岡山藩、薩摩藩、遠州地方、福井藩、仙台藩など各地に広まりました。
政宗 どのような特徴があるのか。
黒須 射術には、馬に乗って射る「騎射(きしゃ)」、三十三間堂の通し矢から発展した「堂射(どうしゃ)」、そして自分の足で立って弓を引く「歩射(ほしゃ)」があります。日置流印西派の特徴は、この「歩射」にあります。戦場で徒歩(かち)武者(歩兵)が用いる射法です。「飛(ひ)・貫(かん)・中(ちゅう)」の実践を目標とし、特徴的なのが「割膝(わりひざ)」という膝立ちの体勢で弓を引く方法で、これは戦場で敵方から放たれる矢を避けて身を隠しながら、瞬時に身を起こして敵を射るのに適した方法でした。
政宗 まさに〝実戦型の弓術〟であったわけじゃな。

 

初めて割膝で弓を引く政宗。かつては藩主が徒歩武者の射術で弓を引くことはなかった

仙台・青葉まつりで披露した、戦場で徒歩武者が用いる射法「歩射」の演武。甲冑や刀を装着して箙(えびら)を背負い、敵方の矢を避けながら割膝で弓を引く。射手は間合いを詰めながら、敵前間近にまで迫る

馬に乗って射る「騎射」の演武

 

 

 

仙台藩と日置流印西派弓術。

慶長8年(1603年)、
吉田伊豫重勝(いよしげかつ)によって伝えられる

 

 

政宗 日置流印西派(へきりゅういんさいは)弓術が、我が仙台藩へと伝わった経緯をうかがいたい。
黒須 伝えたのは、流祖・一水軒印西(いっすいけんいんさい)の長男・吉田伊豫重勝(よしだいよしげかつ)です。慶長8年(1603年)、重勝は山崎勘右衛門(やまざきかんうえもん)と名前を変えて、仙台藩に仕えはじめました。
政宗 なにゆえ名前を変えねばならなかったのか。
黒須 仙台藩にはすでに、吉田流の正統伝系者である吉田助左衛門重隆(よしだすけざえもんしげたか)が召し抱えられていたためです。実は重勝の父・一水軒印西には、吉田流の正統伝系者を争って敗れ、印西派を起こしたという経緯がありました。重勝は、父と争った重隆に遠慮して名前を変え、仙台藩に仕えるようになったようです。
政宗 そうであったか。当時、将軍家の弓術指南役が印西派であったため、「当家にも印西派を」との思いから重勝を招いたように記憶しておる。それが吉田殿のご先祖であったというわけじゃな。
吉田 もともと近江の国に生まれた重勝は、今井宗薫(いまいそうくん)の紹介で政宗公と出会い、お仕えするようになったと当家では伝えられています。私の家は、その重勝の四男・六左衛門重朝の家系で、私で十三代目になります。

日置流印西派の復興を目指す黒須氏

黒須 政宗公に招かれてやって来た重勝は、仙台藩に家臣として24年間仕えました。その間藩士を指導し、射術の弟子は百有余人にも上ったようです。よく知られている大坂夏の陣を描いた屏風絵に伊達軍の姿が描かれていますが、そこで弓を引いているのは印西派の兵たちかもしれません。
政宗 印西派はその後どうなったのか。
黒須 甲冑を着け、弓で戦うことに長けていた印西派は、鉄砲が使われるようになり、さらに戦のない平和な時代に入ると、活躍の場を失ってしまいました。仙台藩の公認流派として幕末まで継承されましたが、明治維新後は大日本武徳会、日本弓道連盟などに吸収されてしまい、流派としては存続しませんでした。
政宗 では、吉田家は? 

政宗に招かれた日置流印西派の継承者吉田伊豫重勝の子孫・吉田氏

吉田 当家の初代である重朝は家臣として、藩に命じられて沿岸部の蒲生原屋敷を開墾し、その領地を拝領しました。そこに剣道場、馬術場、弓道場を開き、藩士の指南なども行っていたようです。家臣としてよく務めたようで、当初150石だった禄高は、最終的には800石にまでなりました。
政宗 明治維新後は?
吉田 先祖が開墾した地にずっと住み続けております。弓の家系であることを知ってはいましたが、弓術との関わりはありませんでした。私は父から「剣術、馬術、弓術をやれ」と言われて育ったため、剣術、馬術はやったのですが……。

戦場では矢を背負う道具「箙(えびら)」を携行していた

弓の弦が切れた時に付け替えるための弦を納めている「弦巻(つるまき)」

弦巻は短刀の端にかけて使う

 

 

「伊達印西派弓術」の復興と継承、保存を目指す。

体系的にまとめ、実践し、射術を正しく伝えたい

 

 

政宗 お二人が、仙台藩で継承された日置流印西派弓術の復興に取り組むようになった経緯をうかがいたい。
黒須 私は高校時代から45年ほど弓を引いています。弓道文化について学ぶために入学した筑波大学で出会った先生が印西派の範士九段、稲垣源四郎先生でした。研究の過程で仙台藩にも印西派が伝わっていたことがわかり、同じ印西派ならば、と、復興を目的に平成21年(2009年)に「伊達印西派弓術研究会」を立ち上げました。その後、20年ほど前に偶然知り合った吉田さんが、震災後、同流派の直系の子孫だと分かったことから、平成29年(2017年)に宗家として迎え、伊達印西派弓術の体制を整えました。
吉田 当家が印西派だと分かったのは、東日本大震災がきっかけでした。自宅が被災し、津波による流出を免れた伝書類を調べていただいた結果、日置流印西派だと分かったのです。
政宗 まさに奇跡であるな。では、それぞれの思いをお聞かせいただきたい。
黒須 吉田家に弓術伝書は残っていましたが、射術は一切行われていませんでした。私は何百年もの間、武士が命をかけて築き上げてきた伊達印西派弓術を実践して検証するとともに、体系的にまとめ、文化として保存、普及、伝承してゆきたいと思っています。
吉田 当家のルーツである日置流印西派について理解を深め、伝書を現代語に訳してまとめたり、広めたりということをしてゆきたいと考えています。宗家として、3年前から黒須さんのもとで弓術の練習もはじめました。
政宗 では、そんなお二人は、伊達をどうとらえておられるのか。
黒須 外様大名として生き残るだけでもたいへんだった時代に、弓隊を集めた弓ノ町を作るなど、いろいろなことを考えて町を整備した。―すごい方だと思います。そんな政宗公への敬意を込めて「伊達印西派弓術」と名付けました。
吉田 私の先祖は、開墾した蒲生の地を、領地として与えられました。政宗公は家臣として生きてゆけるよう居場所をくださったのです。心配りの行き届いた、すごい藩主であったと思います。
政宗 では最後に、それぞれのこれからについて。
吉田 弓術だけでなく、馬術、鉄砲など、伊達家ゆかりの武術の継承者や団体をつないでネットワークをつくり、未来に伝えてゆきたいと考えています。
黒須 研究会としてはこれまで通り、定期的な稽古、弓術体験活動、演武伝承活動、国際普及活動を行います。個人的には、吉田家に伝わった弓術伝書を全て解読して、当時の実際の射術を実践し、正しく伝えてゆくことが夢です。
政宗 400年以上前にわしが招いた吉田伊豫重勝の家系が今も続いていること。歴史に埋もれていた伊達印西派弓術が再興されつつあること。まことに祝着至極である。お二人の、過去を大切に想い、未来を創ろうとする姿は、我ら伊達武将隊の思いとも重なる。ともに力を尽くしてまいりたいと存ずる。

射場から的場へ向かって矢を放つ。この緊張感が弓術の醍醐味である

津波による流出を免れた伝書 仙台藩吉田家「伊達印西派弓術文書」花押/流祖 吉田一水軒印西

吉田家に伝わる「伊達印西派吉田家文書」。卷子本「目録」「無言歌」「神道之巻」、和綴本「美人雑」「小笠原流小的書」「日置流細工方」「射的書」「辻的書」

政宗公の兜、前立て、雀、竹を用いた伊達印西派弓術の印

射手が的に向かって弓を引く場所、射場

的が置かれている垜(あづち/的場)。射場からの距離は15間(28m)、的の直径は1寸2尺(36㎝)

弓道修業と研究の場として開設された「梨割道場」。梨割とは最上の「離れ」(矢が離れる瞬間のこと)を表す言葉

 

 

取材協力/伊達印西派弓術研究会 
取材地/遠刈田梨割弓道場 刈田郡蔵王町遠刈田温泉字新地東裏山35-13 ※連絡先は研究会のface book参照