南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。
芳賀銃砲火薬店 芳賀火工 十八代目 芳賀 克司氏
仙台の夏の風物詩として親しまれている「仙台七夕花火祭」。この花火大会を陰で支え続けている芳賀銃砲火薬店 芳賀火工は、仙台藩初代藩主・伊達政宗公の時代から仙台藩に砲術師として仕えていた歴史を持っています。
芳賀銃砲火薬店 芳賀火工十八代目の芳賀克司さんに、同社の歩みと花火への思いについて、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいます。
(伊達武将隊かわら版vol.17/2019.8月-9月掲載「伊達とは何か」より)
政宗 現世に蘇ってから毎年「仙台七夕花火祭」を楽しみにしておるのだが、この祭りを支えている芳賀殿が、仙台藩と深い関わりがあったと聞いて驚いておる。まずは、芳賀銃砲火薬店 芳賀火工とはどういう会社であるか、お聞かせいただきたい。
芳賀 当社は、銃砲・火薬類の販売と、花火の製造・販売・卸を行っている会社です。仙台と花巻に工場を持ち、現在は打ち上げ花火を中心に営業しています。
政宗 もともとは、仙台藩の砲術師だったとのことだが。
芳賀 芳賀家の初代が伊達政宗公に砲術師としてお仕えしたのが始まりで、以降、江戸時代の終わりまで仙台藩に仕えてきました。江戸時代末期、十二代目・芳賀十右衛門が江戸で洋砲兵学を学んだのをきっかけに、火縄銃の製造も手掛けるようになりました。仙台藩に納めていたほか、京都守護職であった松平容保公に献上したという記録も残っています。藩政時代、仙台藩は圧倒的な数の火縄銃と弾丸を保有していたと言われています。
政宗 米沢時代から、わしは積極的に火縄銃を取り入れておった。
芳賀 天文12年(1543年)に種子島に伝来し、織田信長公が長篠の戦いで使用してから、火縄銃は全国に広まって行きました。政宗公と二代藩主・忠宗公は特に鉄砲がお好きだったようで、「伊達の鉄砲好き」と言われていたようです。また、お二人とも射撃の名手であったとも聞いております。ただ……。
政宗 ただ?
芳賀 火縄銃は右頬に銃床を当てて構え、右目で照準を合わせて撃つのが基本です。本日こうしてお姿を拝見して、右目が不自由だった政宗公がどうやって火縄銃を撃っていたのだろうという疑問が湧いてきました。
政宗 残念ながら現世に蘇る時、そうした記憶は抜け落ちてしまったようじゃ。ただ、わしは若い頃、稲富流砲術を熱心に学んでおった。さらに、軍事訓練を兼ねた狩りを頻繁に行なっておったから、それで腕が磨かれたのではあるまいか。ところで、戦国の世では各藩が競い合って火縄銃を作っておったが、わが仙台藩の火縄銃の特徴はなんであろう。
芳賀 仙台藩の火縄銃は「仙台筒」と呼ばれ、大きめの銃床、直線的な八角銃身が特徴でした。見た目はシンプルですが、高性能でたいへん高価なものであったと聞いています。当家の十右衛門が作った仙台筒は、他より一尺(30㎝)ほど長く作られています。
政宗 命中率を高めるためじゃな。甲冑にしても刀にしても、わしは実用第一と考えていた。この火縄銃にもそうしたわしの考え方が受け継がれておるようだのう。
芳賀 実用本位の銃ですが、イボ隠しや銃床に分胴紋型の座金が使われるなど、隠れたところに手の込んだ繊細な細工が施されています。以前、この仙台筒をご覧になった方が、「仙台藩の治世の成せる技である」と感心なさっていました。私は、伊達らしい武骨でダンディな銃だと思っています。
政宗 わしが火縄銃を使い戦をしたのは、大坂夏の陣が最後であったな。
芳賀 騎馬隊に火縄銃を持たせた「鉄砲騎馬隊」を編成したと言われていますね。まず鉄砲騎馬隊が前に出て火縄銃で撃ちかけ、敵がひるんだところに騎馬隊が突進していくという戦い方をしたと聞いています。
政宗 芳賀家は現在花火業を中心に営業しているとのことだが、仙台藩の砲術師からどのように花火業へと移行していったのであるか。
芳賀 まず、明治15年(1882年)に鉄砲売買免許鑑札を宮城県第一号で取得しました。当店はこの年を創業年としています。花火の製造・卸を始めたのは、第二次世界大戦後です。今のように花火大会が盛んになったのも、その頃でした。平和な時代を迎え、それまで戦や戦争に使われてきた火薬の技術を何かに活かせないかと考えて、玩具花火や打ち上げ花火を作るようになったと聞いています。
政宗 火薬の平和利用ということじゃな。わしも、花火は好きであった。
芳賀 伊達治家記録には、天正17年(1589年)7月7日、政宗公は米沢城で唐人(外国人)の花火をご覧になったという記述がありますね。たいへん気に入られたようで、翌日は唐人から献上された花火をご自分で上げたり、また日を置いて再びご覧になったりなさったとか。
政宗 その記録が見つかったおかげで、わしは「日本で最初に花火を見た人物」ということになっておるようじゃな。どのような花火だったのであろうか。
芳賀 政宗公がご覧になった花火はたぶん、打ち上げ花火ではなく、もう少し原始的な、噴き出し花火に近いものではなかったかと思われます。色も、炭が燃えるような地味な色ではなかったかと。
政宗 現世のように電気の灯りがない時代のこと。噴き出す火の粉に、わしも家臣たちも、さぞ驚き、心を奪われたことであろう。
芳賀 江戸時代に入ると、各藩の江戸屋敷で納涼花火が行われるようになりました。尾張、紀州、水戸といった親藩だけではなく、仙台や加賀のような雄藩の江戸屋敷でも行われていたようで、中でも仙台藩の花火は「仙台河岸の花火」として江戸の町人たちにたいへん人気があったそうです。
政宗 その頃にはもう、打ち上げ花火があったのであるな。
芳賀 はい。現在も行われている隅田川花火大会(両国の川開き)が始まったのは、享保18年(1733年)のことでした。この花火大会は、前年、大飢饉とコレラの流行で多くの死者が出たことから、その慰霊と悪病退散を祈願する目的で始まったと伝えられています。
政宗 花火大会には、そのような意味があったのか……。
芳賀 亡くなった人の慰霊や鎮魂、あるいは、国家安泰などの願いを込めて、お盆の前後に花火を上げるという習慣は、現在も脈々と受け継がれています。私はこれこそが、日本の打ち上げ花火の原点だと考えています。
芳賀 忘れられない花火大会があります。平成23年(2011年)の「石巻川開き祭り」です。この花火大会も、もともとは「川施餓鬼」といって、川や海で亡くなった人たちを弔うために始まったものでした。東日本大震災直後は全国的に自粛ムードが高まっていたことから、私は正直、花火大会は中止せざるをえないと思っていました。ところが当時の石巻商工会議所の会頭が、早々に「やりますよ」と言ってくださったんです。うれしくて、全国の花火屋さんに連絡しました。すると、各地で花火大会が息を吹き返したんです。「震災で亡くなった方のために」という位置づけで。花火大会の原点に戻ったような気持になりました。
政宗 芳賀殿が作る花火は、国内外の競技会で優勝するなど、高く評価されていると聞く。そんな芳賀殿が、花火師としてこだわっていることは?
芳賀 伝統花火を大切にしながら、新しいものを開発していくことです。当店では「創造無限」という言葉を掲げています。お客様はもちろん、プロの花火屋さんにも喜んでもらえるよう、夢の創造と、最高の感動の提供を常に目指し続けています。
政宗 では、芳賀殿にとって伊達とは何であろうか。
芳賀 政宗公がいなかったら、仙台という街は拓けていませんでした。軍事面だけではなく、産業、財政、外交などに長けた、すごい方だったのだろうと思います。その偉業がなければ仙台はなく、我々が銃や花火を継承することもできなかった。感謝し、尊敬しています。また経営者としても、道標にしています。東北に留まることなく、全国あるいは海外までも俯瞰するなど、政宗公には先見の明がありました。当店も、そんな政宗公に学び、仙台の一工場に留まることなく、全国展開したり、海外の花火大会に参加したり、国際的に技術を共有し合うなどしています。
政宗 わしの一番の大事は御家の存続と仙台の発展であった。さらにこの地に収まることなく、世界と繋がって、仙台をより豊かにしてほしいと願っておった。その思いが今に受け継がれ、活躍してくれている御仁がいるのは、誠に喜ばしい限りである。では最後に、芳賀火工殿のこれからについてうかがいたい。
芳賀 銃砲については、できる限り存続させたいと思っています。メインの花火については、地域に密着するとともに、さらに日常的な文化として浸透していくことを願っています。というのは、震災の年に見た、花火を見上げながら手を合わせていた人、涙を流していた人の姿が、今でも心に残っているのです。改めて、日本の花火には特別な力があると感じました。そうした花火の力について学び、そういう思いを大切にしていきたいと考えています。
政宗 亡き人を思いながら見上げ、ふと地上に目を移した時、そこには生きている自分たちがいる。そして、命のつながりや大事さに気づく――。花火とは、実によいものであるのう。震災以降、仙台宮城の民たちは、芳賀火工殿の花火にどれほど励まされ、癒されてきたことであろうか。誠に大儀であった。
武器である火縄銃を通して藩を支えてきた芳賀家が、今は花火を通して民の力になっていることにわしは深い感慨を覚える。我ら伊達武将隊もおもてなしを通して、これからも仙台・宮城のために力を尽くしてまいりたいと存ずる。
花火撮影・画像提供/菊田菊夫氏
※取材時、対談および撮影に使用した火縄銃には火薬、弾丸は装填されていません。 専門家の指導の下、安全に配慮して撮影いたしました。
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