南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。
喜多流職分佐藤家 十二代目 佐藤 寛泰氏
仙台藩初代藩主・伊達政宗公は、幾多の戦乱を乗り越えた戦国大名としてのみならず、豊かな趣味と教養を身に着けた文化人としても知られていました。そんな政宗公がこよなく愛したもののひとつに、「能」があります。
仙台藩に縁が深い喜多流職分佐藤家十二代目の佐藤寛泰さんに、能と仙台への思いについて、奥州・仙台おもてなし集団 伊達政宗がうかがいます。
(伊達武将隊かわら版vol.16/2019.6月-7月掲載「伊達とは何か」より)
政宗 わしは若い頃から能を好み、折々に我が家臣たちとともに楽しんでおった。現世に蘇って驚いたのは、民が能に触れる機会が少ないということである。佐藤殿にはまず、「能とは何か」というところからお聞かせいただきたい。
佐藤 能は今から670年ほど前に大成し、その基本をほとんど変えないまま現在に至る我が国で最も古い舞台芸術で、ユネスコの無形文化遺産にも登録されています。
政宗 わしが生まれる200年前にはすでに大成しておったということじゃな。
佐藤 それ以前の日本には、中国から入ってきた「雅楽」「散楽」をはじめ、農耕儀礼から生まれた「田楽」や僧侶たちが法会のあとで行った「延年」など、さまざまな芸能がありました。これらを集大成し、謡や舞、ストーリー性を加えたのが、観阿弥・世阿弥の親子でした。
彼らが完成させた能は、時の権力者・足利義満に認められ、その庇護のもと洗練された高度な舞台芸能へと大成されてゆきました。そして室町幕府が崩壊したあとも、長らく武家や朝廷など、身分の高い方々に愛される存在であり続けました。
政宗 わしが生きた戦国の世でも、豊臣秀吉公をはじめ多くの武将たちから愛され、庇護されておった。それは何ゆえであったと、佐藤殿は思われるか。
佐藤 能には「平家物語」や「源氏物語」「伊勢物語」、中国の故事などを題材にした、250ほどの演目があります。これらの演目の中には、戦を描いた物語が少なくありません。秀吉公や政宗公など、多くの武将たちに愛され、庇護された理由の一つに、能の「史実を正しく伝える」という面があったのではないかと思われます。
政宗 単なる娯楽ではなかった、ということであるな。ふり返れば、わしは徳川の世になってからも家臣たちとよく能を楽しんだのだが、そこには「戦国の世を知らない世代の者たちに、能を通して武士の在り方や忠義の心を伝えたい」という思いがあったのかもしれぬのう。
佐藤 興味深いのは、そうした戦物語に「勝った」「良かった」という話が、わずか3つしかないということです。それより遥かに多いのが、負けて滅んだ武将たちの話です。
政宗 わしが好んだ「実盛」という演目も、まさにそういう物語であったな。
佐藤 武将たちはこれらの物語から、負けた者の儚さや悲哀を学び、自分なりに昇華なさったのではないでしょうか。また、「実盛」もそうですが、能には死者がよく登場します。亡霊が僧や人々に供養してもらい、成仏するという筋書きが多いことから、能は「鎮魂の芸能」と呼ばれることもあります。
政宗 戦国の世は戦続きで、わしも多くの家臣を失った。そうした者たちへの思いもあって、武将たちは能を大切にしたのかもしれぬのう。
政宗 喜多流という流派についてうかがいたい。
佐藤 能には、主役を務めるシテ方、その相手役を務めるワキ方。さらに、笛、小鼓、大鼓、太鼓などを演奏する囃子方などがいます。それぞれが専門職で、兼任することはありません。シテ方を務める流派には、観世、金春、宝生、金剛、喜多の五流があります。私どもの喜多流は最も新しい流派で、江戸時代初期に創設されました。
政宗 喜多流の流祖は、豊臣秀吉公に仕えていたと聞くが。
佐藤 七歳の時に秀吉公の前で能を舞い、その高い技量が認められて「七太夫」という名を賜ったと伝えられています。大坂夏の陣では豊臣方の一員として戦ったようです。落城後、身を隠していた七太夫は徳川家康公によって探し出され、徳川家に仕えるよう勧められました。しかし、「武士は二君に仕えず」と断ったということです。
政宗 秀吉公の誘いを断った片倉小十郎景綱のようであるな。
佐藤 結局、七太夫は二代将軍・秀忠公に能楽師として取り立てられ、北姓を喜多と改めたことで喜多流が誕生しました。その後、幕府が能を「武家式楽」(公式の芸能)と定めたことにより能は諸藩に普及し、喜多流も広まりました。
政宗 わが仙台藩では、喜多流と金春流の二つの流派を抱えておった。流派にはそれぞれ特徴があるかと存ずるが、喜多流の特徴はどういうものか。
佐藤 喜多流は「武家好みの芸質」とよく言われます。たとえば演目で太刀や薙刀を扱う場合、他の流派は優美さが際立つのに対し、喜多流は実際の扱い方に近いと言われています。また、舞台に立膝で座る場合、他の流派が左足を立てるのに対し、喜多流は右足を立てて座るという違いもあります。
政宗 抜刀しやすいように、ということであるな。ところで佐藤殿は喜多流職分佐藤家の12代目ということであるが、「職分」とはどういう役目であるのか。
佐藤 もともとの意味は家元から、家元の代行ができる技量を備えているとの許しを得た人というもので、佐藤家は能を演じるだけでなく、家元の許しを得て、藩主の指南役も務めていたようです。残念ながら明治維新で仕える藩を失ってしまったため、佐藤家は拠点を東京に移さざるをえませんでした。仙台藩と当家の関わりを伝えるものとして残っているのは、伊達家独自の舞の型を記した「型附(かたつけ)」だけとなっています。
政宗 して、明治維新以降の佐藤家と仙台宮城との関わりは?
佐藤 旧仙台藩とのつながりはその後も続き、昭和初期には宮城県内で2,000〜3,000人もの方がお稽古をなさっていたそうです。数こそ減りましたが、現在もお稽古の指導のために頻繁に足を運んでおります。また、「仙台・青葉まつり」の時期に開催される「仙台青葉能」のように、伊達家と関係がある行事やイベントの際には喜多流能を上演しております。
政宗 能楽師とはどのような仕事であるのか。
佐藤 幼少期は子方として舞台に立ちます。中学生・高校生ぐらいになると演目の詞章(ししょう)、謡(うたい)、舞(まい)を覚えるほか、楽器のお稽古もします。その間もずっと公演に出続けます。大人になると、お稽古と公演のほか、お稽古事としての能を教えたり、学校で講義をしたりもいたします。自分の技量の研鑽をしながら能の普及にも努めるというのが、現代の能楽師の仕事になっています。
政宗 それでは、そんな佐藤殿にとって、伊達とは何であろうか。
佐藤 伊達政宗公がいらしたからこそ、当家がここまで続いているのだと思っております。政宗公には様々なストーリーがありますが、私は、いろいろなものに対して目が開いていた、魅力的な人物だったのではないかと考えています。築いた文化、建物、支倉常長の海外派遣など、どれをとっても「目が開いていた」としか思えません。また、人間性にも魅力を感じます。伊達家や仙台藩を存続させることができたのは、政宗公の人徳と、民を思う強い気持ちがあったからこそだと思っています。
政宗 仙台を拓いたとき、わしは「民が安心して暮らせる国になるように」との願いを込めて、大橋の擬宝珠に「民安国泰」と刻んだ。民あってこその国であるからのう。
佐藤 「養老」という演目に「君は船 臣は水」という謡があります。「主君は船、民はその船を運ぶ水である。船が転覆しないようにするには、波を立てないようにしなければならない」という意味です。政宗公は能に親しむ中で、そうした詞章を心に留め、昇華し、実行なさったのではないでしょうか。
政宗 能とは実に学ぶべきことが多い芸能じゃのう。では最後に、喜多流職分佐藤家のこれからについてうかがいたい。
佐藤 能を観たことがない方が、まだまだいらっしゃいます。お稽古の指導で初めて仙台に来たとき、学生が能を見る機会がないことに気づきました。そこで、2009年から「能への誘い」という公演をはじめました。毎回小中高校生200名、大学生200人を無料で招待し、演目に解説を付けたり、内容を抜粋して見やすいように仕立てるなど、能に気軽に触れていただけるよう工夫して上演しております。
政宗 そのように良きものを、よくぞ作ってくださった。この地の初代藩主として、心から御礼を申し上げる。
佐藤 能には舞台を観る他に、お稽古事としての楽しみ方があります。舞、謡、楽器を習う方もいらっしゃいますし、礼儀作法や立ち居振る舞いなどを身に着けるために習う方もいらっしゃいます。昔はお嫁入り前に能を嗜む習慣もあったようです。能は教養であり娯楽であり、文化です。自分の国の文化を知るためにも、一度は能に触れていただければと願っております。
政宗 かつて仙台には、仙台城本丸はもとより家臣たちの屋敷にも能舞台があった。こうした歴史的背景を踏まえ、この地に能の文化が再び花開くよう、我ら伊達武将隊も力を尽くしてまいりたいと存ずる。
取材協力/公益財団法人仙台市市民文化事業団(せんだい演劇工房10-BOX別館 能-BOX:仙台市若林区卸町2-15-6)、仙台市能楽振興協会
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