南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。
大和伝 刀匠 九代目 法華三郎信房氏・栄喜氏
大崎市松山にある、「法華三郎日本刀鍛錬所」。ここは、仙台藩初代藩主・伊達政宗公が愛した日本刀・大和伝を復元し、作り続けている工房です。
刀匠である九代目法華三郎信房さん、栄喜さん親子に、日本刀や大和伝への思いについて、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいます。
(伊達武将隊かわら版vol.15/2019.4月-5月掲載「伊達とは何か」より)
政宗 この4月で、我ら伊達武将隊は十期目に入った。現世に蘇ったばかりの頃はとまどうことも多かったが、時代も民の暮らしも変わる中、今も日本刀を打ち続けている法華殿の存在を知ったときは心強く思ったものである。そんな法華殿に、まずは「日本刀とは何か」というところからうかがいたい。
信房 日本刀は、単なる武器ではありません。日本人にとって刀は、精神文化の象徴です。この考え方は、外国にはありません。以前、ローマの鉄を研究している学者が訪ねてきた折に、「ローマ帝国の兵士は、さぞ素晴らしい武器を使っていたのでしょうね」と尋ねたところ、「日本刀に比べたら取るに足らないものだった。ローマ兵の剣は叩くものだった」という返事が返ってきました。
政宗 まさに武器であったということじゃな。
信房 日本刀は、斬ることを目的としていませんでした。主に祭祀のためのものです。古来より魔除けや守り刀として、人々の生活に深く関わってきました。神様を守るもの、家を守るもの、自分や家族を守るものという、精神文化の象徴なのです。だからこそ、人々は大切にしてきたのです。
政宗 現世の人々の多くは、「戦とは、刀で斬り合うもの」というイメージを持っておるようであるが。
栄喜 戦国時代の武器は鉄砲や槍などが主流で、相手と距離をとって闘うのが一般的でした。刀を使うのは、敵味方が入り混じる接近戦の時などに限られていたようです。中でも馬で出陣する政宗公のような武将が、刀を抜いて闘うということはほとんどなかったのではないでしょうか。刀は「抜かない武器」だったのです。使われなかったからこそ、古い時代の刀も残っているのです。
政宗 なるほど。では、武器ではない日本刀は、どのように使われていたのであろうか。
栄喜 主に褒美や献上品、国同士の贈答品、婚礼の贈り物などに使われていました。当時、刀は最も価値があるものと考えられていたのです。名刀と讃えられる刀を持つことが、武将たちの喜びであり、ステータスでもありました。伊達家は、徳川家に次ぐ刀持ちだったのではないかと言われています。
信房 当時の武将たちが、どれほど名刀を大切にしていたかという逸話があります。二代将軍・徳川秀忠公が、政宗公に短刀を所望したことがありました。
政宗 それはわしが、豊臣秀吉公の形見として賜った、鎬藤四郎吉光(しのぎとうしろうよしみつ)のことであるな。
信房 大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したとき、多くの名刀が大坂城とともに焼けてなくなりました。残ったものはごくわずかで、秀吉公が生前人に与えたものだけでした。鎌倉時代の名工が作ったとされる鎬藤四郎吉光もそのひとつで、将軍でさえも「欲しい」と思う名刀でした。しかし……。
政宗 わしは断ったのであったな。そして、「他家へ出さぬように」と厳命しておった。
信房 短刀 一 振りのために、62万石が取り潰される可能性があったにもかかわらず、です。戦国時代の武将たちにとって、名刀とはそういうものでした。
政宗 法華殿が作っている「大和伝(やまとでん)」とはどのような刀であるか。
信房 木目にたとえられる地金の模様は、刀身と平行に筋が通る「柾目肌(まさめはだ)」、刃文は真っ直ぐな「直刃(すぐは)」で、刃と棟(むね)(峰)の間に設けられた「鎬(しのぎ)」が高く、幅も広いのが特徴という、実にシンプルな刀です。
栄喜 実用性の高さと美しさは、政宗公が愛用した「黒漆五枚胴具足(くろうるしごまいどうぐそく)」に通じるところがあります。この甲冑の胴の部分は、鉄砲で撃たれても弾が通らない鉄板でできています。当時、武将の多くが「糸縅(いとおどし)」という技法で作られた華やかな甲冑を愛用する中、政宗公は、本来雑兵が着けるような鉄板製の甲冑を愛用していました。現存する甲冑には、試し撃ちの痕も残っているようです。
政宗 武具甲冑には命がかかっておる。いざというときに役に立たなければ、何にもならんからのう。
栄喜 刀に対しても同じ思いであったようで、質実剛健な作風の大和伝は、まさに政宗公好みの刀でした。
政宗 大和伝の歴史は?
栄喜 日本刀の鍛法や作風を分類すると、大きく分けて、大和(やまと)、山城(やましろ)、備前(びぜん)、相州(そうしゅう)、美濃(みの)の5つに分類することができます。大和伝はこの五箇伝(ごかでん)と呼ばれる作風の中でも最も歴史が古く、鎌倉時代にはすでに作られていたようです。発祥は、その名の通り大和地方(奈良県)です。
信房 大和伝は一度廃れました。これを復興させたのは、政宗公でした。仙台藩では山城大掾国包(やましろだいじょうくにかね)をはじめ、多くの刀工を抱えていました。その初代国包(くにかね)に政宗公が作らせたのが、大和伝だったのです。江戸中期、当家の先祖である初代法華三郎が九代国包に師事したことで、法華家では四代目まで大和伝を作っていました。しかし五代目以降は、華やかな刃文で大衆に好まれる備前伝を作るようになったようです。
政宗 その後、大和伝は?
信房 約100年間作られることはありませんでした。時を経て復活させたのは、私の父である八代目信房でした。初代山城大掾国包を尊敬していた八代目は、「政宗公が作らせた名刀を復活させたい」「仙台には大和伝を残すべきである」と考え、初代国包の流れを汲む大和伝保昌派(ほうしょうは)の復元に取り組みました。先祖伝来の山や土地を切り売りして十年分の生活費をつくり、その歳月の全てを大和伝復元に注いだのです。私も手伝いました。絶え間ない研究と試行錯誤の末に復元を果たしたのは、昭和38年(1963年)のことでした。
政宗 法華殿親子が、そのような思いをしながらも復元してくれたこと、嬉しく思う。
信房 八代目は、その努力と功績が認められ、昭和41年(1966年)に日本刀鍛錬技術保有者として「宮城県指定重要無形文化財」第一号の指定を受けました。現在、日本の刀工二〇〇名余りの中で大和伝保昌派の鍛錬ができるのは、法華家だけとなっています。
政宗 刀匠としてのこだわりをうかがいたい。
信房 日本刀に求められる要素は、「折れず、曲がらず、よく斬れる」です。砂鉄と炭だけを使い、折れないように柔らかな心鉄(しんがね)を中に入れ、曲がらないように硬い皮鉄(かわがね)で包み、よく斬れるように刃先(はさき)に硬く粘りのある刃鉄(はがね)を加えて、繰り返し鍛錬する。大和伝の作り方は、鎌倉時代と全く同じです。使う、使わないは関係ありません。祖父や父から学んだことをひとつも省略することなく、折れず、曲がらず、よく斬るように作ること、それが伝統を継承するということだと思っています。そして、自分が納得したものしか世の中に出しません。
政宗 中途半端なものは作らないということであるな。
栄喜 日本刀ほど、来歴がはっきりしているものは他にはありません。刀身(とうしん)を見るだけで、何時代に誰がどこで打ったものかわかってしまうのです。つまり、自分が鍛錬した刀も、百年、千年と残って行くのです。法華三郎信房の銘が刻まれて世に出るのは、一年で3振りから5振りぐらいです。
政宗 では、そんな法華殿にとって「伊達」とは何であろうか。
信房 伊達政宗公には、感謝と尊敬の念を抱いています。政宗公が山城大掾国包を刀工として抱え、庇護してくださったおかげで、法華家は今、大和伝保昌派を継承しています。政宗公のおかげで、当家の今があるのです。
政宗 では最後に、法華家のこれからについてうかがいたい。
信房 残念ながら「わからない」と申し上げるしかありません。戦後の高度経済成長期を経て、暮らし方が欧米化したことにより、日本人の刀に対する考え方は大きく変わりました。畳がなくなり、神棚がなくなり、仏壇がなくなり、床の間がなくなる。「武士の魂」「日本の精神文化の象徴」と言われ、大切にされてきた日本刀への思いが希薄になってきているように感じています。
栄喜 最近は歴史ブーム、刀剣ブームと言われていますが、伝統文化継承の支えとなるところまでは達していません。日本刀は日本人の生活に深く関わってきました。豊臣秀吉の刀狩りや明治の廃刀令、第二次世界大戦後の刀剣類の接収を掻い潜り、それぞれが家の守りである日本刀を命がけで守ってきたという歴史があります。多くの方々に、日本の伝統文化としての日本刀、大和伝について知っていただき、親しんでいただければと思っています。
信房 時代が変わっても、刀匠である私の姿勢が変わることはありません。己を磨き、精進を重ね、ただ無心に目の前の一振りと向き合うのみです。
政宗 大和伝を復元し、作り続けていること、誠に大儀である。日本刀とは、家や人の守りであり、魂を高めてくれるものであることがようわかった。我ら伊達武将隊も、法華殿のように志を高く持って歩んでまいりたいと存ずる。
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