南奥羽の覇者と讃えられ、戦国大名として乱世を生き抜き、仙台藩62万石の礎を築いた藩祖・伊達政宗公。
その功績は軍事・政治のみならず産業・文化・国際交易にまで及び、その遺勲は今なお伝え継がれています。
この地に生き、継承と革新を繰り返しながら〝伊達〟の系譜を守り続ける方々にご登場いただきます。
青葉神社 宮司/片倉家十六代当主 片倉 重信氏
深い木立に守られて建つ、入母屋造りの荘厳な拝殿。ここ青葉神社は、仙台藩初代藩主・伊達政宗公が祀られている神社です。
この神社の宮司を務める片倉重信さんに、青葉神社の創建の由来と込められた思いについて、奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 伊達政宗がうかがいます。
(伊達武将隊かわら版vol.14/2019.2月-3月掲載「伊達とは何か」より)
政宗 毎年4月はじめ、我ら伊達武将隊の出陣式の折には、わし政宗に縁の深い瑞鳳殿、大崎八幡宮、そしてここ青葉神社に参拝するのが習わしとなっておる。片倉殿にはぜひ、この神社の創建当時から今日に至るまでの歩みをお聞かせいただきたい。
片倉 青葉神社は、明治7年(1874年)に、藩祖・伊達政宗公を祭神として創建されました。このお宮の創建は、明治維新と深い関わりがございます。ご存じのように戊辰戦争で奥羽越列藩同盟は敗れ、その中心的な役割を果たしていた仙台藩は賊軍として処分されました。
政宗 藩主は江戸で謹慎となり、所領は62万石から28万石に減封されたのであったな。
片倉 困窮した亘理の伊達氏、岩出山の伊達氏、白石の片倉氏、角田の石川氏といった藩の重臣たちは、家臣とともに北海道へ集団移住せざるを得なくなり、藩はばらばらになってしまいました。そんな中、仙台に残った家臣の方々が中心となって、明治6年(1873年)に神社を建てることを新政府に願い出て許可されたのが、この青葉神社の始まりと伝えられています。
政宗 何ゆえ、わし政宗を祀ろうと考えたのであろうか。
片倉 仕えるべき藩主と、侍という身分を失った家臣の方々が、心の拠りどころとなるものをお求めになったのではないでしょうか。実は当時、青葉神社と同じように、藩祖をお祀りする神社が全国各地で造られました。いずれも、創建の思いは同じであったものと推察いたします。
政宗 創建以降の青葉神社は、どのように歩んでこられたのか。
片倉 明治7年(1874年)には本殿・拝殿・神楽殿などが完成し、政宗公の御霊を新社殿にお移ししました。その後、大正11年(1922年)に改築、現在の形になったのは昭和2年(1927年)のことでした。
政宗 民たちはどのように受けてとめていたのであろうか。
片倉 創建当時は、「仙台を築いた政宗公の神社」ということで、家臣のみならず、市民も大勢お参りに来てくださっていたようです。これは戦前のお話ですが、青葉神社のお祭りの日は、地域の小中学校はもとより企業や銀行もお休みになって、街中みんなでお参りに来てくださったと聞いております。
政宗 して、その後はいかが相成ったのか?
片倉 GHQが政府に対して発した神道指令により、神社は厳しい時代を迎えました。しかしながら、昭和60年(1985年)の伊達政宗公没後350年を機に「仙台・青葉まつり」が開催されたほか、昭和62年(1987年)に大河ドラマ『独眼竜政宗』が放送されてからは、お参りに来てくださる方が少しずつ増えてきました。また近年は武将ブームということで、若い方も訪ねてくださるようになりました。
政宗 それは実に喜ばしいことである。
政宗 ところで、片倉殿は、片倉小十郎景綱の子孫と聞くが。
片倉 初代から数えて、私は16代目に当たります。
政宗 いつ頃から、片倉家が青葉神社の宮司を務めるようになったのであるか。
片倉 大正6年(1917年)、私の祖父の代からです。
政宗 何ゆえ、片倉家が宮司を務めることになったのであろうか。
片倉 明治維新後、白石城城主であった我が片倉家も身分を失い、家臣とともに新天地を求めて北海道に移住しました。現在の登別や札幌の白石区の辺りに移り住み、開拓に励んだようです。祖父が白石に戻ってきたのは、明治42年(1909年)、父が生まれた時のことでした。そんな祖父が、なぜ青葉神社の宮司を務めることになったのか、詳しいいきさつは聞かされておりませんが、祖父、父、私と三代にわたり、今日まで宮司を務めさせていただいております。
政宗 わしの傅役であった小十郎の子孫が、今またわしが祀られている神社に宮司として仕えてくれているとは、巡り合わせの不思議を思わずにはおられぬのう。
片倉 実は、初代片倉小十郎景綱の父は米沢で神職を務めておりました。次男であった景綱は10歳の頃、政宗公の父上である輝宗公の小姓に出され、政宗公がお生まれになってからは傅役としてお仕えするようになったのだそうです。景綱、重長(※)の親子が二代にわたって政宗公にお仕えして以降も、片倉家の当主は代々小十郎を名乗りながら、歴代藩主にお仕えしてまいりました。
政宗 そうであった。わし亡き後も、伊達成実の子孫と景綱の子孫など多くの子孫が、伊達家を支え続けてくれたと聞き及んでおるぞ。
片倉 神職の子として生まれた景綱は、本来であれば神にお仕えする立場でしたが、政宗公をお支えする武将として神職とは異なる道を歩みました。その子孫である祖父が青葉神社の宮司として、神となられた政宗公にお仕えすることになったことに、私は深いご縁を感じております。
政宗 片倉殿は現在、どのような思いで宮司を務めておられるのか。
片倉 宮司になって34年になりますが、当初は先祖が生涯を共にした御方を神として祀る神社に、どのようにお仕えすればいいのか悩みました。祖父は私が生まれた翌年に亡くなり、父も病に伏していることの方が多く、神職がどういうものかわからないまま育ってしまいましたので、なおさらでした。いろいろ考えてひとつ気づいたのは、神職の子として生まれたにもかかわらず武将として人を苦しめる生き方をせざるを得なかったことに対して、景綱は罪の意識を持っていたのではないかということでした。以来、先祖や先祖が苦しめた方々に思いを馳せながら、世の繁栄と平和を祈願させていただいております。
※重長は片倉小十郎重綱の改名後の名前
政宗 今年もまた、「仙台・青葉まつり」の季節が巡ってくるのう。
片倉 このお祭りは「青葉まつり」と呼ばれた青葉神社の春の例大祭が起源となっています。政宗公のご命日である5月24日に行われていたこの例大祭は、御神輿や山鉾が街に繰り出す盛大なお祭りで、たいへん賑わったといいます。残念ながら、昭和40年に途絶えてしまいましたが、昭和60年、政宗公没後350年を機に復活し、現在に至っています。
政宗 復活後は5月の第3日曜日を本祭り、その前日を宵祭りと定めて行っておるのじゃな。我ら伊達武将隊も、毎年参加させていただいておるのだが、本祭りに先駆けて行われる青葉神社の神輿渡御は、実に見事であるのう。
片倉 御神輿は神様の乗り物です。普段は神社に鎮座している神様に市中に出ていただき、発展の様や賑わいをご覧いただき、更に地域の穢れや災いを祓っていただくのです。
政宗 なるほど、祭りには意味があるということであるな。では、わし政宗を祀る青葉神社の宮司を務める片倉殿にとって、伊達とは何であろうか。
片倉 政宗公は単なる武将ではなく、和歌、お茶、香、能、書など、あらゆるものに秀でた御方でした。その根底には、上方の武将たちに侮られたくないという思いがあったのではないでしょうか。そのために全てを極める。その気概と姿勢こそが伊達であり、伊達文化の礎となったのではないかと考えています。
政宗 それでは最後に、青葉神社のこれからについてうかがいたい。
片倉 昨年11月、青葉神社の本殿など6つの建造物が登録有形文化財として登録されることになりました。これらの建物は建てられてから間もなく100年になります。この節目の年に向かって、変わってゆかねばならないと思っています。たとえば、これまで青葉神社は「政宗公をお祀りする神社」として知られてきましたが、政宗公は武振彦命という神名をいただいた、神なる存在であるわけです。ですからこれからは「武振彦命をお祀りする神社」であることを打ち出し、広く認めていただけるよう歩んでゆきたいと考えています。
政宗 我ら伊達武将隊も、8月に10年という節目を迎える。これまで以上に精進してまいる所存である。民のため、仙台・宮城のために、ともに歩んでまいろうではないか。
青葉神社 仙台市青葉区青葉町7-1 Tel.022-234-4964 |
※文中で表示の年数は取材した2019年1月当時のものです。
2018年4月1日の伊達武将隊出陣式の様子
青葉神社の鳥居をくぐり、参道の石段を登り境内へ
青葉神社拝殿にて第9期伊達武将隊出陣の報告
参拝の後に、片倉宮司よりお言葉を頂戴した